第二十六幕後。金桃…のつもりが赤桃。
茉子は本屋が好きだ。時々休みの日に出かけてはファッション誌や料理本を眺めている。この日も一人で近所の本屋に来ていた。目的の本を買い、そろそろ帰ろうかと出入口に向かって歩き始めたとき、突然空が真っ暗になり、雨が降り出した。雨はどんどん強くなり、近くで雷の落ちる音までしている。先程まで快晴だったせいもあり、傘も持っていない。
(少し経てば大丈夫だよね)
だが雨の勢いはなかなか弱まってくれない。
(困ったな…彦馬さんに連絡入れた方がいいかな)
店の出入口を見ると、長身の青年が入って来るのが見えた。
「源太」
ニヤリと源太が笑う。「外からべっぴんさんが見えた」
手には男物の大きな黒い傘が1本。「志葉の屋敷まで送るよ」
「いいの? ありがとう」
店を出て雨の中、二人で歩く。
「何買ったの?」
「料理の本。やっぱり自己流はよくないな~と思って」
「水くせぇなぁ。俺がいるじゃねぇか。なぁまだ時間大丈夫だろ?」
「うん。何で?」
「いいから」
源太についていくと源太の屋台の前にいた。
「ま、今日はこんな天気だし客も来そうにないしな。特訓だ」
「え? いいの?」
「三つ星シェフの源太様にまかせておけ」
「それこの間の夢の話でしょ。千明に聞いたよ」
「俺は至って大真面目なんだけどな」
「そっか。じゃお願いします。で、何すればいいの?」
「今日は何もしなくていいよ。俺を見てろ」
「どういうこと?」
「茉子ちゃんは自己流はよくないって自覚したんだろ。だったら他の人がどんな手順を踏んでるか見たほうがいいんじゃねぇかと思ってさ」
「ふ~ん。ホントに真面目に教えてくれる気なんだ」
「当たり前でぇ」
源太が慣れた手つきで魚を捌き始めた。いつも源太の屋台に来ているが、こうしてまじまじ仕事ぶりを眺めるのは初めてだった。
「…何か源太かっこいい…初めて思った」思わず茉子がつぶやいた。
「初めてかよ」手も止めずに源太がツッコミを入れた。うつむき加減の源太のおでこに少し長くなった前髪がかかる。まつ毛が長い。少し照れたような表情を浮かべた源太の顔に図らずもドキッとしてしまう。
「お寿司は全部お父さんに教えてもらったの?」
「まぁな。他のとこで修行もしてたけど、早く自分の店持ちたいなぁってずっと思ってた」
「そうなんだ。夢があるんだね」
「お待ちどう」
源太の話に感心している茉子の前に寿司が出された。
「見てろとか言ったけど、ホントは食べてもらいたかったんだ。最近元気なさそうに見えたから」
「え…」
その時ドヤドヤと屋台の暖簾をくぐる者達がいた。
「茉子ー! こんなところにいたのか? 探したぞ」
「流ノ介、うるさい。姐さん、傘持ってきた」
「茉子ちゃん、もう大丈夫やで」
三人の後ろには丈瑠もいた。
「やだ、丈瑠まで。まだケガしてるのに…あれ?」
さっきまで土砂降りだったのに、いつの間にか重い雲の隙間から光が差し込んできた。
「ていうか何で姐さんここに?」
「たまたま源太に会えたから」
「お前達、黒子が夕飯を作ってくれている。帰るぞ」
「ハッ」
茉子の隣に座ってちゃっかりすしを食べようとしていた流ノ介が慌てて立ち上がる。
「なんだよ、丈ちゃん。せっかく茉子ちゃんに作ったんだぜ?」
「じゃこれ包んでもらって持ち帰って、みんなで分けて食べよう。せっかく来てもらって悪いけど、先帰ってて」
今度は茉子の隣に丈瑠が座った。
「先行ってていいよ」
「…」
「傷、痛むの?」
「茉子ちゃんのそばにいたいんだよ。俺と二人きりでいるのは気に入らないらしいし」
「そうなの?」
茉子が顔を覗き込むと丈瑠は憮然とした表情をしている。
「丈瑠も食べるでしょ?」
「俺はいい」
「なーんだ。ことはみたいにあーんしてあげようと思ったのに」
「あ~! あの時の丈ちゃんデレデレだったな」
「だね! わたしもことはに食べさせてもらいたかったー」
「そっちかよ」
「…お前達ずいぶん仲良くなったな」
「相合傘した仲だし」
「これからわたしの師匠になるかもしれないし?」
「だよな」
「何の話だ?」
「内緒」源太と茉子の声が揃った。
「さ、できたぜ。みんなで食いな」
「ありがとう。丈瑠、行こ」
「じゃあな丈ちゃん、茉子ちゃん」
「またね」
帰り道、丈瑠が口を開いた。
「さっきのはなんだ?」
「だから内緒って。丈瑠にはうまくなってから見てもらいたいから」
「? そのために源太と二人きりで会うのか?」
「そうなるかな」
「…家で黒子に習えばいいだろう」
「わかったんだ?」
「源太から教わるものはそれしかないからな」
「反対?」
「二人きりじゃなければ構わない」
「毒見する気ある?」
「…それは…」真剣に悩む丈瑠をかわいらしく思ってしまった茉子だった。
(かわいいなんて言ったら丈瑠に怒られるよね)