微妙に『酔い』の続きのような話。
「昨日、丈瑠に部屋まで運んでもらったってんだってね」
朝、稽古を終えた後、うっすら汗の浮かんだ少し紅潮した顔の茉子が申し訳なさそうな顔で話しかけてきた。
「覚えてないのか?」
「昨日は源太の屋台で流ノ介と飲んだところまででそこから記憶が飛んでるみたい…」
「そうか」
「丈瑠が見つけてくれたんだって?」
「あぁ、まあな。一人で帰ってきて、それで」
「それで私どこにいたの?」
「本当に覚えてないのか?」
昨日の夜、茉子は源太の屋台で流ノ介と酒を飲んでひとりで帰ってきた。そしてあろうことか俺の部屋の布団の上に風呂上がりのパジャマ姿で座っていた。そう、今みたいに顔を紅潮させて。ただ表情は全然違ったけど。
「わたし、何かした?」
黙っている俺に茉子は不安げな表情で尋ねてきた。
「イヤ、何もできなかった」
「え?」
俺の布団の上にいた茉子は、いつものクールな表情と違って、酔っ払い特有のふわふわした空気をまとい、寝転んだ茉子を抱き起そうとした時に抱きすくめられた。
「もっとわたし達を信じて」
「…」
「みーんな丈瑠のこと好きなの…もちろんわたしもよ」
「…」
茉子は体を離して、俺を見つめてきたが、俺は何も返すことができなかった。
あのあと、流ノ介が茉子を探していて、何か知らないかと部屋を訪ねてきた。何とかごまかして茉子を別のところで見つけたフリをして部屋に運ぼうとした。だが、一度密着した体を離し難く、茉子の部屋に向かう途中の部屋で茉子をそっとおろし、あんなこともこんなこともしようとしたのだが…
「さっきの不意打ちのお返しだ」
「ごめん、わたしもう眠くて…」
「茉子?」
本当にあっという間に茉子は眠りついてしまった。俺は仕方なくもう一度茉子を抱き起こし、茉子の部屋まで運んだ。それをすべて忘れていたとは…
「丈瑠?」
「あぁ、イヤ何でもない」
昨晩のふわふわ笑い素直に甘えてくる茉子はもういない、と思うと少し寂しく感じた。
「ひとりで帰ってくるようなことはするな」
「はい」
しおらしく返事をすると、茉子はことはたちのところへ行ってしまった。ことはには本当にいい笑顔を見せる。時に流ノ介たちにだって…。今も流ノ介が茉子に何やら耳打ちをする。茉子は笑って流ノ介の肩を軽く叩くと、ことはと廊下の角に消えた。何なんだ、この気持ちは。
それから何日かしてナナシの探索で茉子と二人になった。
「気配はないみたいだけど…」
「そうだな」
そのうち、ジイからの連絡でこの日の探索は終了になった。
「じゃ帰ろっか」
隣を歩いていた茉子が俺の顔を見上げて言った。
「…イヤ、まだ」
「何か気になることでもあるの?」
「…」
茉子は前を向いて歩き出す。俺はとっさに肩に手を置いた。茉子は驚いて振り向いた。だけど、自分でも驚いていた。せっかくの二人なのにこのまま帰るのはあまりに惜しい気がしたのが自然と行動に出てしまっていた。
「どうしたの?」
少し怪訝な表情をした茉子に、俺は肩に置いた手を下した。
「この前、流ノ介と何を話してた?」
「…いつの話?」
「朝稽古の後。流ノ介が耳打ちしてた」
「あぁ…また飲みに行こうって」
「だが、茉子を一人で帰すようじゃな…」
「あれは勝手に帰っただけだから」
「今度は丈瑠も一緒に行く?」
「…あぁ」
「じゃ流ノ介に話しておくね」
違う、そうじゃない…
「どうしたの? さっきから」
「今度屋敷で月見酒でもしよう、ふたりで」
「ふたりで?」
「別に変な意味はない。流ノ介と一緒だとうるさいからな」
「そっか、いいかもね」
それから、主に茉子が聞き手になって屋敷に帰った。歩いているときにふいに肩や腕が触れるだけで今までにない感情に戸惑った。
「今日は満月らしいよ」
ある朝、茉子が話しかけてきた。
「酒は黒子に用意させる。夜、連絡する」
「うん」
茉子の顔が輝くばかりに美しく見えたのは俺の錯覚ではないと思いたい。その日は一日気もそぞろだった。
縁側に黒子が用意してくれた冷えた日本酒とつまみを盆に乗せ、俺はぼんやり月を眺めていた。
「おまたせ」
茉子がやってきて、お盆を挟んで少し離れたところに座った。二人はあまり言葉を交わさずに飲み続けた。
「やっぱり強いんだな」
「やめてよ、人を大酒飲みみたいに…丈瑠だって同じくらい飲んでるじゃない」
静かな夜に大きな月が二人を照らす。黒子がさりげなく酒を補充するのでもうどれだけ飲んだか分からない。少しだけ砕けた口調になった茉子が話しかけてきた。
「丈瑠はぁー、なんでわたしを誘ったの? わたしのことあんまり好きじゃないでしょ」
「そんなことはない」
「ホントに?」
茉子はまたあの大きな瞳でじっと見つめてきた。何でも見透かされそうで少し苦手なのは確かだ。
「ホントにホント?」
あ、前に見た茉子だ。あの記憶をなくしたときの茉子と同じに見えた。
「しつこいぞ」
「じゃ信じる」
俺は、お盆を少し後ろに下げて、茉子と距離を詰めた。茉子に触れたい。髪も肩も腕もすべて。茉子の置かれた手に自分の手を重ねた。
「丈瑠?」
さらに体を寄せて、唇を重ねていた。茉子は自然と目を閉じていた。唇が離れると、今度は茉子から顔を寄せてきた。酔っぱらった茉子はいつもより大胆だった。
だが…
「丈瑠ーーー」
何度かそんなことを繰り返すうち、抱き付いてきて背中に細い腕が俺の背中に回る。しかし、そのまま眠ってしまったらしい。…またお預けか…。思わず大きなため息が出た。記憶をなくすほど酔っぱらった茉子はいつもより素直で大胆になるのに、スイッチが切れるみたいに眠ってしまう。
これは、しらふのときにどうにかしろということか。丈瑠はまた茉子を抱えると部屋まで運ぶ。
翌日の茉子は案の定、途中から記憶をなくしていた。だが、二人で飲んだのは楽しかったといってくれた。俺は、記憶のある茉子に自分を刻み付けるために次の作戦を考え始めていた。